INTERVIEW

あいとあいまい INTERVIEW 2|美学者 星野太

本インタビューは、あいとあいまい Shape of ( )の企画準備段階に、美学者の星野太さんにお話を伺い、企画検討における思考の拡張や感覚を探るために行ったものです。星野さんの研究や関心のある身体観から「 Shape of ( ) 」というテーマについて考えていきます。

美学の研究と、身体への関心
パルコ:今回の「あいとあいまい」は、これまでジェンダーなど揺らぎのあるテーマを扱ってきましたが、今回のテーマ「 Shape of ( ) 」では「身体」そのものに焦点を広げています。社会的身体と個人的身体の接点という意味で、非常に親和性を感じてお声がけをさせていただきました。星野さんのご専門は美学でよろしいんですよね。

星野:そうですね。説明するときは、美学は広くは哲学の一分野で、なかでも芸術や感性的な認識を扱う学問だと話しています。美学には、具体的な作品論から抽象的な美の概念まで幅があります。アーティストを研究する人もいれば、より抽象的な哲学研究をする人もいますが、その中で自分は、比較的まんべんなくやっているタイプだと思います。

パルコ:最近の研究分野や関心領域について教えてください。

星野:だいたい二つか三つのテーマを並行して進めています。今取り組んでいる仕事としては、『群像』で連載している、九鬼周造という日本の哲学者についての研究ですね。九鬼は一般には『「いき」の構造』の著者として知られていますが、より広い意味での美意識について哲学的に考察した人物でもあります。この九鬼周造の連載が、今いちばん時間を割いている仕事です。
もう一つ、これから本格的に取り組みたいテーマとして「メンテナンス」があります。直接的なきっかけは、今年1月に埼玉県で起きた道路陥没事故です。下水管の老朽化が原因とされましたが、こうした事故は国内で意外と頻発しています。イノベーションやクリエイティビティが重視される一方で、メンテナンスが軽視されてきたことを、理論的に考えたいという思いがあります。今の仕事が一段落したら、「メンテナンス」をキーワードに何か書きたいですね。
さらに最近は、「ケア」や「修復」といった思想も注目されていますよね。美術や文学とも通じるのですが、それらを「メンテナンス」という言葉で捉え直せないかと考えています。
筋肉とタトゥーのオーセンティシティ
パルコ:ファッション論でハトラを扱われたり、『ユリイカ』では「イケメン・スタディーズ」のテーマで書かれたりしていましたよね。とても面白かったです。

星野:ありがとうございます。ファッションを体系的に論じてきたわけではなく、書ける範囲で書いてきたという感覚です。ファッションについては、ハトラのこと以外はあまり書いていません。

パルコ:「イケメンはイケメンの枠を超えられない」という話が印象的でした。

星野:読み返してみると、イケメンというのはデータベース的な顔で、作ることができるし、どんなイケメンも既存の型にすっぽり収まってしまう、という議論でしたね。

パルコ:身体的なものについて、普段考えたり文章にされたりすることはありますか。

星野:「イケメン・スタディーズ」の数年後に、同じく『ユリイカ』であった「日本の男性アイドル」という特集で武田真治さんや成宮寛貴さんについて書きました。その頃から筋肉というテーマに関心があったのですが、最近のインスタグラムを見ていると、自分が20代の頃とは明らかに状況が違うと感じます。男女問わずヘルシーな身体がオーセンティックなものとして共有されている。特にSNS上の筋肉表象には興味があります。

もう一つがタトゥーです。最近、ギャングスタ・ラップをよく聴いているのですが、熊谷を拠点とする舐達麻を例に挙げると、彼らのリリックのオーセンティシティを担保しているのはタトゥーだと思うんです。リリックは言葉なので偽装できるけれど、MVに映る首の上までびっしり入ったタトゥーや、身体そのものが持つオーセンティシティがあるからこそ、あのリアリティが出ているんだと思います。

それは、筋肉とタトゥーに共通するところだと思っています。どちらもファッションではなく、身体に刻み込まれたもの。たとえば顔にタトゥーを入れられるかといえば、職業柄できない人がほとんどだと思います。だからこそ、自分には越えられないラインを越えている身体を見ると、多くの人がそこに強いオーセンティシティを感じる。
筋肉も同じで、ほどほどならジムに通えば手に入るけれど、本当に圧倒的な筋肉は、生活そのものを差し出さなければ到達できない。加工技術では越えられない壁です。その意味で、SNS的表象の中でも、筋肉とタトゥーは突出していると感じています。
「自然な身体」は存在するのか
パルコ:今回のステートメントでは、「整えられた心と身体で私たちは暮らしている」という言い方をしています。「整えられる前の身体」のようなものが果たしてあるのか、あるとしたらそれはどんなものなのか、あるいは本当にそんなものはあり得るのか、ということを探っています。

星野:「自然な身体」や「野生の身体」は、存在しないのではないかと思いました。僕らが想像するような、社会化される前の自然な身体や野生の身体というのは、フィクショナルなものだと思っていて。もともとそういう身体があったのではなく、「自分の身体が社会化されている」という感覚が先にあり、そこから「そうじゃない身体があるのではないか」と想像されている、そういう構図なんじゃないかと思うんですよね。
何が自然で何が社会化された身体かは、時代や文化圏によって変わるものだと思っています。たとえばレーシックのような視力矯正。目にメスを入れるので以前は抵抗感がありましたが、今ではメガネやコンタクトの延長として受け入れられています。美容整形もそうですが、何が自然で何が自然でない身体かという意識は、つねに揺らいでいるものだと思います。

一方で、「自然の身体」や「野生の身体」を夢想してしまう感覚も、わからなくはないんです。たとえば、スポーツ選手の突出した身体性や身体能力を目の当たりにすると、「これは自分たちが知っている社会化された身体とは全然違うな」と思ってしまう感覚はあります。

パルコ:いわゆる「黒人選手は身体能力が高い」というような言説も、そういう感覚から出てきているのだと思います。

星野:ある種フェティッシュなものですよね。それが倫理的にいいのかどうかという問題も含めて、「自然」や「野生」という前提を立てることには、個人的にはやはり懐疑的でありたいと思っています。
都市における身体の緊張感の変化
星野:今日話そうと思っていた内容の一つに、洋服のリラックス化があります。雑駁な印象論ですが、10代・20代くらいの若い世代の服装を見ていると、オーバーサイズのシルエットをはじめ、僕らの頃よりもずいぶんリラックスしているなと感じます。
以前の社会的な規範である「外に出るときはきちんとした格好をして、家ではリラックスしていい」という線引きがかなり曖昧になっていると感じています。「人の目がある場所では、こういう身体的振る舞いをすべきだ」という規範意識が、以前よりも希薄になっているということです。だから、若い人たちの身体性を見ていると、本人の素の身体性が比較的見えやすくなっているように感じることが多い。10~20年前の公共空間のほうが、もっと身体的に緊張していて、規範を強く内面化していた印象があります。

背景には、外と内の境界が揺らいでいることがあると思います。家にいてもZoom会議で外の視線が入ってくるし、逆に外にいても意識はスマホやラップトップの中にある。常に人の目を気にしているわけではない。そういう状況の中で、外向きの身体と内向きの身体という切り分けが曖昧になり、「素の身体」がその辺を歩いている、という感覚がある。今はそういう状態なんじゃないかと思います。

パルコ:過去にあった緊張感の源泉はどこにあったと思われますか。

星野:スマホの有無だと思います。電車に乗っていても、みんなスマホを見ていますよね。画面を見ているから、意外と周りを見ていない。自分も周りを見ていないし、周りも自分を見ていない、という感覚になっている気がします。
僕自身は2001年に東京に来たんですが、当時の都市の面白さは常に眼差しが乱反射していることだったと思います。誰かを凝視しているわけじゃないけれど、渋谷を歩けば自分も人を見ているし、自分も見られている。その適度な緊張感の中で街を歩く感覚がありました。

でも今は、移動中もずっと地図アプリを見ているし、前ほど人を見ていない感じがする。だから、もし僕の感覚が間違っていなければ、都市空間における身体の緊張感は、以前より下がっているんじゃないかと思っています。そういう意味で、今の若い人たちが都市をどう経験しているのかは、すごく興味があります。僕にとって渋谷や新宿を歩くことは、用事があって行く場所であると同時に、程よい緊張感を楽しむ行為でもあった。でも最近は、ああいう感覚はあまりしなくなりました。
その代わりに、スマホの中、SNSの中で相互に「眼差す」ことをしていますよね。画面越しの緊張感は、むしろ強くなっている。ただそれは、身体的なやり取りというより、イメージ同士、セルフイメージ同士の眼差し合いに近い。そうなると、身体そのものは二の次になっていく。その中で、人々の関心を引く身体が、筋肉だったり、タトゥーだったり、そういう記号的なものになっていくんだと思うんです。

パルコ:我々は毎月街頭でファッションスナップ(パルコのウェブマガジン『ACROSS』における定点観測)をしているのですが、月ごとに定められた特定のアイテムの着用者しか撮れないルールがあるんですよ。だから、とにかく見る。ひたすら人を見るんです。一方で、若いスタッフで手伝ってくれている学生アルバイトの子たちを見ていると、たぶんそういう経験がほとんどない。街で生身の人間をじっと見るという経験自体が、あまりないんじゃないかなと感じることがあります。

星野:世代による都市経験の違いは、かなり大きいと思います。個人的には、なるべく移動中はスマホを見ないようにしています。姿勢が嫌なんですよね。スマホを見ていると、どうしても猫背っぽくなる。スマホに没入していること自体より、スマホを見ることでみんなと同じ姿勢になるのが、どうにも気持ち悪くて。なるべく抵抗したいとは思っているんですが、緊急のメールもあるし、地図アプリも結局は見てしまいますね。

パルコ:全員が同じ姿勢になることへの気持ち悪さについて、若い世代はそういう感覚があまりなさそうですよね。

星野:そうなんです。だから今回の取材テーマを考える中で、今の若い人たちにとって「美しい姿勢」とか「よりよい身体性」みたいな感覚があるのかどうかが、すごく気になっています。もしあるとしたら、それはどういうものなのか。
「ヘルシー」という価値観
パルコ:チームでも「整えられた身体」ということを考えています。内と外の境界が溶けてリラックスする、スマホの中で身体性が二の次になっていると感じる一方で、筋トレをしたり、身だしなみを整えたりする男性がすごく増えていると感じています。その相反する感じを、どう捉えていますか?

星野:心身ともにヘルシー志向であることが望ましいという意識があると思います。それは、お酒をあまり飲まない、タバコを吸わない、といったライフスタイルともつながっているし、メンタルヘルス的にも健康であるほうがいいという価値観ですよね。それが筋トレや食事制限といった方向に結びついている。
一方で、それが必ずしもガチガチの規範的な振る舞いにはなっていないところが面白い。基本的には「整えていこう」というヘルシー思考がありながら、同時にリラックスした身体性も共存している。二つのレイヤーが、不思議な形で共存している感じがします。
もしかしたらクラスターによっての違いかもしれないですが、いまだに強い規範性が残っているところもあるのではないかと思います。外資系コンサルや、いわゆるエリート的な環境では、立ち振る舞いも含めてガチガチに整えていく感じはありますよね。

パルコ:ヘルシーへの欲求に「管理」という言葉が使われますね。

星野:そうですね。「管理したい」という欲求なんじゃないでしょうか。身体を把握し、コントロールしたい。そのための運動としての筋トレ。アメリカでは昔から、肥満や喫煙者は出世できない、といった暗黙のルールがありましたよね。心身ともに健康であることが、社会的なステータスを担保する条件になっている。そうした規範意識を内面化した結果としてのヘルシー志向なんだと思います。

パルコ:一方で、我々がスナップをやっている時に探している、おしゃれな若い人という基準でいうと、意外と喫煙所にいるという話もあって。もちろん全員ではないですが、フィジカルな体験を伴ったスタイルを重視している人も多いと思います。そういう意味では、若い世代が、いわゆる「悪い」方向も含めて、身体的な実感を取り戻そうとしている部分もあるのかもしれない、という感覚もありますね。酒を飲むし、というような。

星野:最近、学生の中には、授業のコメントにわざわざ「SNSは見ません」と書いてくる子もいます。スマホの中だけで完結するやり取りに違和感を持って、離脱をしている。そういう人たちは、たとえば筋トレなどを通じて「こういう身体でありたい」という理想像を持ちつつ、他者の承認のためではなく、自分の満足のためにある身体像を追求しているような気もする。そこに、ひとつのリアルな身体があるのかもしれません。
ボディポジティブと理想像
星野:最近、学会で聞いた発表で面白かったものがあって。ハリウッド映画における「肥満」の表象を扱った研究なんですけど、いわゆる“ちょっと太っている”ではなく「超肥満」と呼ばれるレベルの身体が、コメディ映画の中でどんな機能を与えられているのか、という内容でした。立命館大学の宮内沙也佳さんの研究です。文化表象の中での肥満/脂肪という切り口は、率直に面白いと思いました。
もうひとつ、最近話題になった藤嶋陽子さんの本(『「ありのまま」の身体──メディアが描く私の見た目』青土社、2025年)も面白いと思いました。彼女が書いていたのは「ボディポジティブ」をめぐる言説に対する違和感についてです。社会的にそういう潮流があることは理解できる。でも、自分自身の身体としてそれをそのまま受け入れられるかというと、そうではない、その距離感の話が、問題提起として印象に残りました。

私がボディポジティブについて、単純にどう思うかと聞かれたら、基本的には良いことだと思います。さきほどの肥満の話にもつながりますが、身体の規範性に苦しんでいる人は本当に多い。だからまずは、その苦しみを一旦解除するためのメッセージとして、ボディポジティブは広がるべき倫理だと思っています。
ただその上で、「自分はこういう身体でありたい」という、個人的な欲望はやっぱり別に存在する。それ自体を否定することはできないし、してはいけないとも思う。同じことはルッキズムにも言えますよね。社会的には「外見で人を評価してはいけない」という規範は共有されるべきだけど、それでも「自分はこういう顔でありたい」「こういう肌でありたい」という欲望は、取り去れないですよね。その二段階を分けて考える必要があるんだと思います。
PROFILE

美学者

星野太(ほしの・ふとし)

1983年生まれ。美学、表象文化論。東京大学大学院総合文化研究科准教授。著書に『崇高と資本主義』(青土社、2024年)、『食客論』(講談社、2023年)、『崇高のリミナリティ』(フィルムアート社、2022年)、『美学のプラクティス』(水声社、2021年)、『崇高の修辞学』(月曜社、2017年)、訳書にジャン゠フランソワ・リオタール『崇高の分析論』(法政大学出版局、2020年)などがある。

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