INTERVIEW

あいとあいまい INTERVIEW 1|映画作家・ダンサー 吉開菜央

本インタビューは、あいとあいまい Shape of ( )の企画準備段階において、映画作家・ダンサーの吉開菜央さんにお話を伺い、企画検討における思考の拡張や感覚を探るために行ったものです。吉開さんの制作経験や身体観を手がかりに、「 Shape of ( ) 」というテーマについて考えていきます。

映像と身体感覚
パルコ:映画作家として『ほったまるびより』『Shari』などの作品を生み出している吉開さんですが、ダンサーとしても表現を行う一方で、なぜ「映像」というメディアを選ぶのか。その理由について教えていただきたいです。

吉開:映像をやったときに、自分が普段踊っているときの感覚が、すごくダイレクトに伝えられるなと思ったんです。最初は運動感覚が中心でした。たとえば体を一気に落としたり、腕をビュンと振り下ろす動きも、カメラでそう撮って、そう編集すれば、普段踊っていない人でも、その映像を見ることで運動感覚が伝わる。
自分が踊っているときの感覚も共有できるし、距離の問題も、むしろ一体になっている感じがありました。舞台で踊ると、どうしても「見る側」「見られる側」という距離が生まれるけれど、映像だとそれがかなり縮まる、もしくは消える感じがあるんです。

パルコ:観客に伝わる感動や、伝わるものの質に差がある、というのはとても納得できます。考えてみると、映像の場合、編集しているときもモニターを見ていて、観客もスクリーンを見る。同じ距離感で作っているから、鑑賞者も一緒に乗っていけるところがありますよね。

吉開:まさにその通りで、自分が踊るとどうしても自分を客観的に見ることができない。でも映像だと、一度外部化して見て、「この感覚はある」「これはない」と確かめながら作れる。その点はとても大きいと思います。もちろん、パフォーマンスの素晴らしさは、また別の素晴らしさとしてあるとも思っています。

パルコ:『ほったまるびより』や『ローエングリーン』では、息の音やくしゃみ、しゃっくりなど、とにかく人間の体から出る音がとても印象に残りました。

吉開:初期の頃の私の作品には、ほとんどセリフがありませんでした。言葉がなかったので、音が言葉の代わりになっていたんです。
音はほとんど後で入れています。衣ずれの音や皮膚がこすれる音、息を吹き込む音なども含めて、すべて後から録音して、映像に付けていく。誰かが鳴らしている音だけでなく、たとえば心臓の音を、家の映像に当ててみたりもしました。
絵と音が合わさることで映画はできていく。言葉がなくてもいいし、絵と言葉でなくてもいい。そのとき、「この絵にどんな音を当てるか」で物語が語られていくんだ、という感覚がありました。その感覚は、作りながら発見していったものです。

初期の頃は、自分がダンスを踊っていたこともあって、あえて音楽を使わない映像作品を作ってみよう、という時期がありました。ダンス映像だけれど、音楽を使わない。では何を当てるのかというと、自分の体から鳴る音です。息、唇で出す音、皮膚をこする音、足音。そうした体が鳴らす音にフォーカスしていました。無音ではなく、間を埋めるような音。効果音と音楽のあいだにあるものを探していた感覚です。ダンスは音楽がないと成立しない、という考え方に抗っていた時期でもありました。「なぜダンスは身体だけでは作品になりきれないんだろう」という悔しさも、正直ありました。

その後、音楽は音楽でいいと思えるようになり、『ほったまるびより』あたりからは、音楽とそれ以外の音、両方を使っていこうという感覚になりました。でも一度、言葉も音楽も手放して映像を作ったことで、言語未満、音楽未満だけれど、言葉のようで音楽のような豊かさが、身の回りにたくさんあることに気づけた。それは、抗ってみてよかったと思っています。

パルコ:体を表現するときの、心や体の変化について伺いたいです。吉開さんは斜里町で鹿肉を食べた経験や、禅寺での修行経験などを日常生活でインプットしたものを作品に取り入れている印象があります。他にご自身の経験や感情を作品として放出する際、どんなインプットがあるのでしょうか。

吉開:『ほったまるびより』は、私が一番最初に作った映画でした。映画館で上映することが決まっていて、「映画として作ろう」と思って作った作品です。それまでは、映像作品のようなものを作っていて、本当に欠片のようなものばかりでした。これを作品と呼べるのかな、という感覚もありましたが、自分が興味のある動きや感触をとにかく撮っていました。
『ほったまるびより』は、それらをすべて結集したような作品です。映画にするなら、今までやってきたことを全部詰め込みたい、という気持ちがありました。
作中に、肌を擦り寄せ合ったり、毛を抜いたり、皮膚を噛んだりするシーンがあったと思いますが、あれは実際に私が小さい頃からずっと癖でやっていたことなんです。中学ではテニス部だったんですが、休憩中に暇になると、みんな毛を抜いていました。ちょっと恥ずかしいですが……。
すねの毛とか、みんな、毛づくろいしているサルみたいに、自然と抜き始めるんですよね。それがきっかけで、『みづくろい』という作品を『ほったまるびより』の前に作りました。こんなにみんながやるなら、これはある種の本能的な欲望なのではないか、毛を抜いたり、かさぶたを剥いだり、垢を落としたり、そういう、なんかつい「やりたくなること」は、私たちだけではなく、先祖代々受け継がれてきた感覚なんじゃないか、と思ったんです。

それで、おばあちゃんの皮膚を撮ってみようと思い、マクロレンズで超拡大して撮りました。すると、年を取るとキメがなくなるんですね。しわくちゃだと思っていたら、拡大するとつるっとしている。むしろ若い手のほうが細かいキメがあって、それがとても綺麗でした。その頃は皮膚に強い関心があったので、本を読んで体の仕組みを勉強したりもしました。とある本から、子どもは頭で考えるというより、皮膚で考えている、ということを知りました。ただ、それは大人も同じで、子どものほうがその度合いが強い、という話で。

そこから、「脳は腸である」という考えにもつながっていきます。さらに掘り下げていくと、腸と皮膚もつながっている感覚があって、体の仕組みを調べるほど、連想ゲームのようにいろいろなものがつながっていったんです。
噛むという動作についても、そうした関心の延長線上にあります。今も少しありますが、酔うと好きなものを噛んでしまう癖があって、野蛮ですよね…。

パルコ:キュートアグレッションですね。

吉開:そうです。好きな人の柔らかそうな肉を噛んでしまう。食べたいという感情とはまた違う。酔っているので、自分でもどんな感情なのかよく分からないのですが、普段あまり言葉にできないから、噛んでしまう、というところがあるのかもしれません。

そういったことを調べている中で出会った言葉が「情動」でした。これは、私が映画を作るうえで、とても大事にしている感覚だと思います。情動がなければ、人は行動を決定できない、のだそうです。最初は「何それ?」と思いました。自分は行動を自分で考えて決めていると思っていたからです。
でも考えてみると、即興で踊るときも、右足をこのくらい出して、体をこのくらい傾けて……なんていちいち考えていない。歩くのも、歯磨きも同じで、体の動きを全部言語化していない。むしろ情動で動いているんだ、と気づきました。

情動は、言葉になる前の感覚です。恐ろしいものや美しいものを見たときに鳥肌が立つような、言葉になる前に体が反応する感覚。私の映画は、人間社会のドラマや物語を描くというより、この情動をどう動かし、どう伝えるかを撮ってきたのだと思いました。
整えられた心と身体・整わない心と身体
パルコ:今回の「あいとあいまい」のテーマにある「社会的に整えられた心と身体」という考え方は、決して悪い意味ではないと考えています。たとえばサウナで整う、心を整える、といった言葉もありますよね。わたしたちが生きていくなかで整えられる心と身体を、吉開さんはどう定義されますか。逆に、整えられていない心と身体には、どんなイメージをお持ちでしょうか。

吉開:テーマを伺ったとき、すごく面白いことをおっしゃるなと思いました。どうしてこのテーマにしたのか、その過程にすごく興味があります。
整えられた身体というのは、たとえば、言葉をしゃべる、文字を書く、ご飯を朝昼晩に食べる、そういったことですか。

パルコ:はい、そうです。あとは社会的なことですね。毛を剃ることなども含めて、見られる身体であること。身だしなみも含めた意味です。

吉開:面白いですね。初対面の人に対して、きちんと身だしなみを整えて、姿勢を正して挨拶する。そういった振る舞いも、私は一種の振り付けなんだなと感じていて。
言葉をしゃべる、立つ、座る、体の使い方を覚えることから、髪型まで含めて、私たちは振り付けられていく。それが人間なんだと思います。でもそれは悪いことではなく、生きていくために必要な振り付けであり、リズムだとも思っています。

伊藤亜紗さんの『どもる体』という本がありますよね。吃音をテーマにした本ですが、途中でリズム論の話が出てきます。
リズムがあると、人は自分の運動を部分的にアウトソーシングでき、リズムに乗ると、一人ではできなかったことができるようになる。吃音のある人も、リズムに乗ると自然に言葉が出てくる、という話に感銘を受けました。

それを考えると、人間になるための振り付けも、先人たちの知恵の積み重ねのリズムなんだと思いました。社会の中で安心して安全に暮らすための仕組みを、ゼロから考えなくていいようにしてくれている。それは本当にありがたいことです。

一方で、「整えられていない身体」ということでいうと、私自身、踊り始めたときは、そういった振付や型のない踊りから始まっていたと思います。B’zの稲葉さんの曲を聴きながら、即興で、内臓が爆発するような踊りをしていました。バレエを習い始める前までは、私にとってダンスは、身体の抑制を外すものでした。
今は、整えられたものと整えられていないもの、その両方に興味があります。

最近、「肉袋」というテーマで作品を作りました。肉袋というのは、普段生活するうえで身につけている抑制を外すためのアイデアです。大学で教えているときも、最初に「みんな実は肉袋なんですよ」という話から始めます。
私が尊敬している体操家・野口三千三先生の考え方で、「人間は、皮膚という伸び縮みする柔らかな袋の中に、液体的なものがあり、血液や脳、内臓や骨といったものがぷかぷか浮かんでいる」というイメージがあります。

大学生に教えるときは、まず私が床に寝転がって、「今から肉袋になるので、私の体を好きに触ってみてください」と言うんです。すると、人の体が、ストレッチとは違う意味で柔らかいことに気づく。そこから、液体に浸された肉の袋を捏ねるイメージで体を動かすと、普段こうあるべきとされている人間の姿勢から外れて、どんどん全身がうねうねしてくる。それが私のなかでの「整えられていない身体」なのかな、と思っています。

野口体操を知る前に、私はシュノーケリングを始めていました。海に素潜りしていると、見覚えのある形がたくさんあったんです。「これ、脳みそじゃん!」みたいな。イソギンチャクは内臓の中にある柔毛に見えたり、波打ち際の石灰化した珊瑚の死骸は血管や内臓に見えたり。そのときに、私たちは海から生まれているんだ、と実感しました。皮膚一枚隔てた向こうに、海と内臓がつながっている感覚があったんです。そこから野口体操に出会ったとき、感覚がつながる感じがして、腑に落ちました。
自然に整えられるということ
パルコ:少し話が変わりますが、『Shari』の舞台になっている北海道・斜里の方々は、厳しい自然の中で生きていくなかで、とても整えられた生活をしていますよね。朝5時に起きて除雪をして、常に備えている。そのあり方が、都会とはまったく違うなと感じました。

吉開:そうなんです。「整える」というのは、人間社会のルールに整えられることだけではなく、自然に整えられることもありますよね。斜里の人たちは、翌朝に雪が降るから5時に起きて除雪する。それもまた、整えられている状態なんだと思いました。
厳しい自然の中で生きる斜里の人たちは、地球によって身体を整える手練れが多くて、経験値が桁違いなんです。「整えよう」とするというより、つまりそれは「自然と付き合って生きていく」。自然は思い通りにならないものだから、それを受け止めつつも、自分たちの欲──行きたい場所や食べたいもの──も、しぶとく持ち続けている。
そのために、雪や熊とどう共存するかを、心と体で考え続けているんだと感じました。
人間が地球に生まれてからの時間なんて、ほんの一瞬で、地球はずっと前から存在している。その積み重ねを思うと、彼らの生活の「振り付け」は、本当に強く、美しいものだと思います。

『Shari』に登場する、74歳で元酪農家、現在は果樹を育てている男性がいます。その方に「雪は好きですか」と聞くと、「好きでも嫌いでもない。でも、うちらは雪がないと困る」と言うんです。
雪が地面に積もることで果樹の根を守り、温めてくれる。雪は防寒着の役割を果たす。雪が降らないと、地面が深く凍って、根が枯れてしまう。「そういうことは誰に教わるんですか」と聞くと、「教わるものじゃない」と言われました。
そう聞いて、自分の質問の浅さに気づきました。学校で教科書で教わる知識ではなくて、そこに生きて、経験し、人との会話を重ねる中で、自然と身についていく知恵なんだと思います。到底かなわないな、と感じました。

パルコ:それでいうと都会では、リズムが崩れやすいですよね。それぞれのリズムがあり、そこで居心地のいい場所を自分で見つけなければならない。

吉開:都会は、ある意味欲望のジャングルなのかもしれません。便利すぎる環境は、人間の欲望に基づいたリズムで動いている気がします。選択肢は多いけれど、それは人間のために用意されたリズムであって、地球のリズムではないかもしれません。

最近は、禅寺にも行っています。禅寺にはすでに決められたリズムがあって、それに身を委ねる場所です。1日のスケジュール、座禅、食事の作法など、すべてが決まっています。人間が作ったリズムのように思えますが、実は地球の理にかなっているのではないかと思います。その生活を続けると、決まった時間に便が出るようになる。人間は本当に、ただの管なんだと実感します。

パルコ:今は、「整える」というキーワードが、社会的な活動をする身体、見られる身体、加工、SNSなどとも結びついていると考えていました。
一方で、ここまでの話のように自然の大きなリズムに身を委ねることが「整っている」という見方もある。整えられている、整えられていない、という話も、一概にどちらかとは言えない。行き来するものであるということに気がつきました。
私たちは「社会的にこうあるべき」という概念を無意識に持っていて、そこから外れないように生きている。その前提自体が、決めつけだったのかもしれません。「正しい形からできるだけ外れないように気をつけながら生きる」。その「正しい形」を、私たちはすでに強くイメージしている。

吉開:とても面白いテーマですよね。企画を拝見したとき、どうまとめるのだろうと思いました。

パルコ:「曖昧」であることは、誰かの決めたルールを曖昧にし、多様さを考えること。でも今の生活は、曖昧なのか、むしろ不自然に整えられているのか。そうした問いを、企画として投げかけたいです。

吉開:仏教でいう中道の話にも通じますよね。どちらかに偏るとうまくいかない。作法のなかには「正しさ」は確かに存在するけれど、どちらとも言い切れない。その揺れが大切なのだと思います。
PROFILE

映画作家・ダンサー

吉開菜央(よしがい・なお)

1987年山口県生まれ。世界を五感で理解しようとする時に心と身体に起こる変化を「踊り」と捉え、その感覚を軸に映画をつくっている。自身も演者として映画に出演、舞台作品の演出・美術も行う。監督した主な映画は『Shari』(ロッテルダム国際映画祭2022公式選出)『Grand Bouquet』(カンヌ国際映画祭監督週間2019正式招待)『ほったまるびより』(文化庁メディア芸術祭エンターテインメント部門新人賞受賞)。小田香監督『Underground アンダーグラウンド』出演(2024)。サルヴァトーレ・シャリーノ作曲『ローエングリン』演出・美術(2024)。

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