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COLUMN

別れてゆく人を送れるなら

 こないだ友達がSNSにガランとした部屋の写真をアップしていた。その子が今まで住んでた家。コメントには“物件引渡しってセンチメンタル”と書いてある。そうだよなあと思う。引越しって寂しい。慣れ親しんだ家との別れは切ない。わかるわかる……って言いたいけれど正直そこまでわからない。私も何度か引越しをしているけれど、家を出るとき、その街を去るとき、寂しいとか切ないとかってあんまり思ったことがないのだ。

 引っ越し、卒業、退職、閉店、失恋、離婚、死別。生きているとたくさんの別れがやってくる。そしてそのほとんどは切なかったり悲しかったり苦しかったりする。それらの感情と向きあうのはしんどいし、とても体力がいる。だからなのか。私は子供の頃から、今自分の置かれている日常がいつかやがて失われるものである、と考えてしまうクセがある。

 「ずっとここにはいないだろう」。生活をしているとふと刹那的な感覚が訪れるのだ。休みの日にベッドから出ないでぼーっとしているとき、最寄り駅から家まで一人で歩いているとき、恋人の部屋から出かけるとき、会社の給湯室でカップ麺にお湯を注いでいるとき、それが幸せな瞬間でも、不幸な瞬間でも、ふと、この日常がいつか終わることを思う。すべては通り過ぎるもの。当たり前に離れていくもの。隣の席になった友達も、同じ部署に配属された同僚も、マンションのお隣さんも、足繁く通った食堂も、慣れ親しんだ街並みも、いつかはみんないなくなる。だから無闇に感傷的になる必要はない。そんな風に思っていたから、長く暮らした家を去るときも、学校を辞めて留学するときも、会社員を辞めるときも、心に波風は立たなかった。日常の延長のようにそれらはそっと終わっていった。

 きっと私は別れに強くありたかったのだと思う。別れというものに、心を乱されずに生きていたかったのだと思う。でも、どれだけ心を鍛えようとも(あるいは鈍らせようとも)、太刀打ちできないほどの別れもあることを、年を重ねるほどに気づかされるようになった。先週まで笑っていたのに突然いなくなってしまった人。また会う約束をしていたのに二度と会えなくなってしまった人。いつもはいつまでもではないとわかっているはずなのに。何度も練習してきたはずなのに。やっぱり辛い。すごく悲しい。何かと別れてゆくことの苦しみを、あとどれだけ重ねなければならないのだろうと思ったりもする。

 だからたまに怖くなる。家を出るとき家族と交わす小さな一言が最後だったらどうしようなんて思ってしまう。もっと言っておきたいことがあったのに。伝えたかったことがあったのに。それなのに「小鍋の牛丼温めたら食べれるからね」が最後の一言だったら、後悔しても仕切れない、と思ってしまう。

 何が起こるかわからない日々を生きているからこそ。別れがいつやってくるかわからないからこそ。別れゆくこと自体が予定され、それを送り出すことができるなど、どれほど貴重なことだろうと思う。送別し、それを祝えるなんて、人生における別れの中でどれだけ幸福なことか。ていねいに別れてゆくなど儘ならないことがほんとの世界だからこそ、別れてゆく人を送れるのなら、それはとても尊い。

平野紗季子(ひらの・さきこ)

フードエッセイスト。小学生の頃から食日記をつけ続ける「平成のごはん狂」。雑誌などで連載を持つほか、イベントの企画運営・商品開発など、食を中心に活動中。著書に『生まれた時からアルデンテ』(平凡社)、『私は散歩とごはんが好き(犬かよ)。』(マガジンハウス)がある。

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