バレンタイン|ふと、ギフト。パルコ|PARCO GIFT バレンタイン|ふと、ギフト。パルコ|PARCO GIFT

COLUMN

設定としてのバレンタイン、愛は個人的な場所に

 バレンタインに、長らく興味がなかった。学生のころは、バレンタインとなれば鈴が鳴らされたみたいに学校全体の雰囲気がいっせいに浮足立ったもので、今日は告白をしていいという魔法みたいな設定がすでにあった。自分以外のバレンタイン所作をはたからみている分にはおもしろいのだけれど、当事者となると恥ずかしい。中3の頃、ひとと付き合いはじめたものの「付き合う」という型をなぞっているだけではと自分の気持ちと行為にずれを感じていたわたしは、さすがにバレンタインに贈らないと相手にも悪いしよくなかろうとなにかを贈ったはずなのだけどその内容をまるで覚えておらず、好意は個人的な感情のはずなのに、それを表す日が選ばれてるってどういうことなのかみたいな感覚があったのだと思う。

 校舎を満たすすべての空気が、恋とか愛とかそれ未満のものの予感に一瞬で化けてしまうあの感じ、フラッシュモブみたいだったなと目を細めて思い出す。一方でこの世で起きるすべてのことは大なり小なり「設定」のもとおこなわれているのではなかったかとも思ったりする。たとえばルール、多くの場合はそれを共有する人数が多いほど見えない制限としての拘束力を高めていき、それは必要なものでもあるのだけれど、共有する人数が多いほど個人がおいていかれてしまう感覚があって、そんな思いからわたしは、バレンタインという設定に久しくのれなかったのだった。

 だけどわたしは、少ない人数で遂行される設定は、けっこう好きなのだ。ふたりだけにしかわからない合言葉とか、ふたりだけで海に行く約束とか。そしてわたしがあなたを、あなたがわたしを愛することは、最小公倍数の約束であり、設定だ。わたしが好きなひとは、売れ残ったパンを救うことができなくて、布団のなかで涙を流して泣く。閉店間際の30%オフの時間、店員さんが売り出す声にはっとして、パンをレスキューするために 4つ買ったけれど、パンがころんとほかほかと待っていて、そのすべてを救うことができなかったことを思い出して。これって、愛しいエピソードだろうか? わたしはそのひとが大好きであるという設定のなかに生きているから、このできごとで、より一層そのひとのことを愛しいと思うのだけど。

 バレンタインとの距離感について書いたけれど、それは、大きな設定のなかで個人的な愛を伝えることにはむかいたいほどに、自分と誰かの愛を信じていなかったからでもあると思う。愛を個人の居場所に取り戻せ。そうすれば、どんな世間的行事も、すべて個人的なものになる。今年はたぶん、夫と猫に、贈れると思う。「夫」と「猫」という言葉では言い表せないぐらい無限のひとりといっぴきに愛を込めて。

野村由芽(のむら・ゆめ)

編集者。カルチャーメディア「CINRA.NET」に所属し、クリエイターやアーティストの取材・執筆を行うほか、2017年に自分らしく生きる女性を祝福するライフ&カルチャーコミュニティ「She is」を立ち上げ、編集長に就任。

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