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COLUMN

不自由卒業式

私の大学の卒業式は意味不明な扮装をした人が結集する場であって、特におめでたい雰囲気があるわけでも身が引き締まるわけでもなく、当然、涙するような場でも全然なかった。いや涙する人もいるのだろうけれど、これが最後の悪ふざけだという感じで盛り上がるのだ。私はこの「最後の悪ふざけ」というのが苦手で、頼むから卒業してからの方が大爆発意味不明人生であってくれ!とすべての扮装者に願っていた。こんなことは学生のうちにしかできないという言葉もすきではないし、社会に飛び込むために覚悟を決めろなどという言説には火をつけてやりたい。人間の人生はほとんどが社会と共にある。社会でこそ、あふれでる本性と向き合う日々だ。学生時代の私は死んだ目をしていて、思えばなんにも好きにできていなかった、時間はあったはずだがその価値がわかっていなかったし、だから無いも同然だった、自分がとにかくちっぽけで、コンビニで買い物をすることすらうまくできない気がして落ち込んで、コンビニの電灯よりも価値がないな私は……困ったな……、と思いながらコーヒーを飲んでいた。そんな時にある自由とか?気ままにすごすとか?よくわからない、自分がどこまでいっても学生であり、学校に所属し、学校の人間関係について考えたくもないのに考えねばならないことの不自由さについて考えるし、考えないにしてもそこに現れる「自由」のちっぽけさ、世界の狭さにどうしようもない気持ちになる。

ろくに会話もできないし、取り繕うことができないから簡単に人間関係が破綻する自分。それでいて自らがしたいこと、やろうとしていることがわからない、期待の方が先走って、自分の現在地が見えてこない自分は、明らかに何かに振り回されていて、その振り回す存在こそが自分の「本性」なのだとわかっていた。それらとろくに向き合えず、全貌もわからず、それなのに自由が終わるとか、社会への責任とか言われてもね、困るんですよ。いつどこで自由があったよ?人と仲良くできたり、目標がすでにあったり、世界への恨みが爆発していたり、そういう人にとって学校は確かに自由であったのかもしれない。それらをどこまでも発展させる時間があったのだろう。私は、私の身体を知らない。私の本性を知らない。伸びをすることすら、ろくにできていないんです。

別に、自分の本性を知りたいわけじゃないんです。知るのはだいぶ恐ろしいし、いつか露呈すると思うとやめてくれとしか思わない。でも、現実問題として、このままやり過ごせるわけもない。学生生活は無難に静かに終わっていた。コミュニケーションが下手なぐらいであとはなんとかこなせたはずだ。でも、こんな場所は短期間しか耐えられるはずがない、私はいつか必ず耐えきれなくなって逃げ出すはずだとも、どこかでずっと思っていた。その前に卒業式がやってきて、なんとか間に合ってくれただけだった。

卒業式おめでとう。自由ありがとう、さようなら。これからは社会へ出るのだから、ね?というような、そんなことはここで言うなよ。これからもあなたはあなたとして、生きていくのよ、その本性という爆弾を抱えてね!って、正直に、言ってくれたらどれほど、怖くて、でもうわっ楽しそうだなって思えることか。卒業式の後、新しいスニーカーを自分に買った。なんか、ホラー映画を見る前みたいだ。ホラーみたいな未来は避けたいが、でも、門出って、こうでなくちゃね。自由など謳歌しませんでした、自分の得体の知れなさに自分が一番怯えている、そのままで社会に出るのです。これからの方が本番であることは確かです。行ってきます!自分が自分をいつか知るまで、ワクワクと恐怖で満たしていこう。自由など、まだ見たこともない。卒業、わたし、おめでとうございます。

最果タヒ

詩人。中原中也賞・現代詩花椿賞などを受賞。2017年に、詩集『夜空はいつでも最高密度の青色だ』が石井裕也監督により映画化。2019年には、横浜美術館で個展『最果タヒ 詩の展示』を開催。主な詩集に『グッドモーニング』『死んでしまう系のぼくらに』『天国と、とてつもない暇』、『恋人たちはせーので光る』、エッセイ集に『きみの言い訳は最高の芸術』『もぐ∞』、小説に『星か獣になる季節』『十代に共感する奴はみんな嘘つき』などのほか、最新刊に『「好き」の因数分解』ある。清川あさみとの共著『千年後の百人一首』では、小倉百人一首を詩の言葉で翻案している。http://tahi.jp