謝る、ということが苦手だ。絶対嘘だと思っていた。小学校のころ、先生に喧嘩した相手と向き合わされて、「ごめんなさい」って互いに言わされて、握手して仲直り、ってさせられるあれ、絶対嘘やと思っていた。思ってもないのに言わされている、仲直り、したってことにされている。嘘だ、それに相手も、嘘だと思っているんだろうな。喧嘩しただけでなく、互いを嘘つきとも思うようになる、最悪なやりかただと思っていた。
悪いことをしたら謝る、でも、それで許してもらえるかはわからない、そう教えてもらえずに大人になった気がしている。許せないし、許されないし、そういうことを経験でしか学んでいない。相手の謝罪をしらじらしくかんじて、結局仲直りをするのは先生の前だけ。仲良くしたいなら、相手の前でも「許した」ことにするしかなく、心から「もうなんとも思ってないよ」と思うことはこんなにも難しいと、いつも一人で感じていた。
大人になると仕事先に「すみません」と謝ることは増え、でも同時に、「すみません」と言うことで、相手に怒りを飲み込ませているなあと感じることもある。許してもらっている。互いに、大人で社会人で、そうしてそこまで親しくもないから、マナーが最優先、やりとりのスムーズさが最優先。お互いあきらかに子供とは違っているのに、根本はあのころと変わらないとも思う。もしかして、学校で学んでいたのは、生の人間関係ではなく、社会における人間関係でしかなかったのかなあ、と思う。
それでも謝ることを止めようとは思わなかった、ごめんなさいは魔法の言葉ではないと知りながら、それをどこかで信じていた。ちいさなころ、悪いことをしたら「ごめんなさいは?」と親に言われ、その通りに口にすれば、もう家族は許してくれた。いつもと変わらぬ態度だし、ちゃんと大切にしてくれた。あの時間が、私にまだ「ごめんなさい」を信じさせているのかもしれない。次第にそれは誰にでも通じるものではないということ、むしろ、とてつもない奇跡の中に自分がいたのだということを知る。誰だって許してくれるのではないかと期待するのは、大きな甘えで、つまり家族は家族という関係性に甘えさせてくれていたのだ。
甘えであると気づき始めると、謝ること、悪いことに対する申し訳なさではなくて、謝ってそうして許してもらうことに対する申し訳なさでいっぱいになった。贈り物をしたいと、思うのはその先のことだ。お詫びになにかを贈らせてほしい、そう願うことができるのも、相手が甘やかしてくれているから。だから、ありがとうという思いも込めて、贈り物を、選んでいる。
最果タヒ
詩人。中原中也賞・現代詩花椿賞などを受賞。2017年に、詩集『夜空はいつでも最高密度の青色だ』が石井裕也監督により映画化。2019年には、横浜美術館で個展『最果タヒ 詩の展示』を開催。主な詩集に『グッドモーニング』『死んでしまう系のぼくらに』『天国と、とてつもない暇』、エッセイ集に『きみの言い訳は最高の芸術』『もぐ∞』、小説に『星か獣になる季節』『十代に共感する奴はみんな嘘つき』などがある。清川あさみとの共著『千年後の百人一首』では、小倉百人一首を詩の言葉で翻案している。http://tahi.jp