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COLUMN

物理的事情か、内的要因か

 今の家に越す前に住んでいたマンションには10年暮らしていた。場所は目黒区東が丘。東急東横線の学芸大学駅と都立大学駅、そして東急田園都市線の駒沢大学駅の3駅利用、というと聞こえはいいが、どの駅に行くにも徒歩15分ほどかかるところである。広さのわりには賃料が手頃だったのと、5階で眺望がよく静かな環境というのが気に入ってそれなりに長く住んだ。

 退去して数日後、荷物がすっかりなくなったその部屋で、不動産会社の人と大家さんと待ち合わせた。部屋の状態の確認である。これにより敷金の返還額(場合によっては追加の支払い)が決まる。春の兆しを感じさせる陽が差し込む中、一通りの確認作業が終わると、私は大家さんに「お世話になりました」と菓子折を差し出した。このマンションのオーナー(つまり大家さん)はお年を召した女性で、自らも3階に住んでいた。私は過去に何度かお目にかかる機会があり、その人となりを存じていたのでお礼の品は今風な洋菓子でなくオーセンティックな和菓子にしたのだ。それを受け取って、大家さんはこう言った。「長い間、大事に住んでもらってありがとうございました。」この一言で、なんだか日差しがより暖かに感じられた、冬の終わりの昼下がりだった。

 ところで、ある程度の年齢に達してからの引越しは、遠隔地への転勤や立ち退きといった事柄を除けば自分の意思で決めるケースがほとんどだろう。そのきっかけは「家族や荷物が増えて手狭になった」などの物理的事情と、「部屋や街に飽きた」という内的要因に大別されるように思う(ちなみに私はレコードと書籍が増え続けて手狭になり引越しを決意した)。この点から、引っ越したばかり、あるいは引越し予定の友人に、その主たる動機が前記のどちらなのかを聞いておくと、引越し祝いを選ぶ際の手助けになりそうだ。

 「手狭になった」が引越し理由の場合、前よりも広いスペースを求めるのは当然のこと。なのだが、転居しても思いのほか空間的余裕がないなんていうことは珍しくはないだろう。そんな人へのプレゼントは、長く場所を占めてしまうものよりは、食べ物や飲み物、あるいはキャンドルなどのような、しばらくすると消えてなくなってしまうものがよさそうだ。一方、「飽きたから引っ越す」という人にはどうか。引っ越してすぐではなく、飽きそうな頃合いを見計らって、部屋の印象を変えるようなギフト――たとえば植物など――を贈るのもいいかもしれない。街に飽きて転居した人には、私なら、新居や新しい街がすっかり何の変哲もない日常になったであろう頃に、一冊の本を贈りたい。中公文庫から出ている『潤一郎ラビリンス Ⅰ 初期短編集』である。明治から大正初期にかけて執筆された谷崎潤一郎の短編をまとめたものだが、これに所収の「秘密」は、〈惰性の為めに面白くもない懶惰な生活を、毎日々々繰り返して居るのが、堪えられなくなって〉いた主人公が、ある秘密を持つことで〈平凡な現実が、夢のような不思議な色彩を施される〉のを体験する顛末を描いた作品。何度読んでもゾクッとする内容だが、同時に街の捉え方に新しい視点をもたらしてくれる小説でもある。

 いずれにしても、引越し祝いは独りよがりでもいけないし、リクエストに応えるだけでもつまらない。ある程度のコミュニケーションに基づいて独自性を発揮するのがよさそうだ。もらった人はちょっとした機会にお祝い返しを忘れないようにしたい。

青野賢一(あおの・けんいち)

セレクトショップ「ビームス」にて、個人のソフトを社外のクライアントワークに生かす「ビームス創造研究所」に所属するクリエイティブディレクター。音楽部門「ビームス レコーズ」のディレクターも務める。ファッション、音楽、映画、文学、美術などを横断的に論ずる文筆家としても知られ、現在『CREA』(文藝春秋)、『ミセス』(文化出版局)などで連載を持つ。DJ・選曲家活動は今年で32年。